Shinの雑記帳

台湾ワーホリ生活を中心にいろいろ書きます

旗袍(チャイナドレス)の歴史 (前編)

読者の皆さま、こんにちは!早くも8月3日、こまめに更新をしていくつもりが、突然忙しくなってしまった関係でおざなりになってしまっておりました。と、いきなり言い訳をしてしまいすみません。お久しぶりでございます。

 

今回より旗袍(チャイナドレス)に関しまして、何回かに分けてシリーズ化してブログに書いて参りたいと思います。

 

まず、このブログでは申し訳ございませんが、チャイナドレスという表記は用いず、旗袍(チーパオ)にて統一させていただきます。私はどうもチャイナドレスという言葉の持つ響きが好きになれず、旗袍に対する敬意が感じられないからです。また、詳しくは後述いたしますがチャイナドレスという言葉は和製英語であるのと、長ったらしいので旗袍に統一させていただきます。着物のことも"ジャパンドレス"とは決して言わないし、外国の方からもジャパンドレスなんて言われたくないじゃないですか?(Kimonoで定着しているのでそんなことは無いと思いますが…)

 

ちなみにiPhoneでは「ちーぱお」と文字入力すると自動的に「旗袍」と変換してくれます。素晴らしい⋯

 

それでは本題に入って参ります。

 

7月以降、旗袍工房のお弟子さんでいらっしゃる友人のご紹介で、私は台北旗袍同好会と中華旗袍協会に相次いで加入させていただく運びとなり、活動に参加したり、FBやLINEで毎日のように朝から晩まで交流をしている都合で、なんだかんだと忙しい日々を送っております。

 

今まで何回か活動に参加し、「日本人が旗袍を着ている」ということが非常に珍しいことから2回ほどメディアより取材を受けました。そのため、「私が旗袍に対して考えていること」を明確にするべく、今回からシリーズ化してブログに記載することといたしました。取材で必ず聞かれる「なぜ旗袍を着ているのか?」、「どうして旗袍が好きなのか?」に関しましては、次々回以降のブログにて述べさせていただきます。

 

今回の記事では、旗袍の歴史前編ということで、旗袍が成り立つまでの過程及び「そもそも"旗袍"とはどういう服装なのか」について言及してみました。論文ではないので簡単な内容となっております。

 

呼称については、中華圏では一般的に旗袍(チーパオ)と呼ばれています。"チャイナドレス"は和製英語であると申しましたが、では英語では何と言うのかというと、いくつかの辞書をひいてみましたら、"chinese dress"、"mandarine gown"あるいは"cheongsam"(長衫)などと出て来ました。これらはまぁ正統な言い方であり、現代社会では"qipao"(旗袍のピンイン読み)でおそらく通用すると思います。

 

ちなみに長衫とは、中国語標準語のピンインではchangshanと発音され、中華圏では一般的に男性用の伝統的服装を指すことが多いです。

 

旗袍は、確かにれっきとした中華圏の伝統文化のひとつであり、伝統的な民族衣装であることは疑いようの無い事実であると私も確信しています。ところが、日本の着物と異なる点が一点だけあります。それは、時代によってスタイルの変化を繰り返しながら今の旗袍が完成した点であると私は考えています。(女性の着物も、十二単型から動き易いスタイルへと変化を遂げましたが、「着物の根幹」といえる部分は不変ではないでしょうか。)

 

中国では古代から明朝末期までの長い間、"漢服"と呼ばれる服装が漢民族の王侯貴族の標準的な民族服でした。漢服は旗袍とは全くの別物です。

 

17世紀に入り、中国大陸東北部の満州族漢民族王朝の明を倒して清朝を建国すると同時に服飾文化も徐々に変化して来ました。満州族はもともと騎馬民族であり、防風防寒のための詰襟や、脚部にスリットを開けているなど、騎馬に適した服装をしていました。この服は、「旗人(満州人のこと)の着る長い上着」であったためそこから旗袍と呼ばれるようになりました。(ウィキより)

 

"旗袍"という呼び方については、1927年または1928年の中華民国期に定着したものであるそうです。(岩本真一先生 「近現代旗袍の変貌 ー設計理念と機能性にみる民族衣装の方向ー」より)

 

清朝期の旗袍は現代のボディコンシャスなスタイルとは異なり、ゆったりとしたものではあるものの現代の旗袍に通ずる源流と言えると思います。上からストンと落ちているようなイメージです。

 

1912年、孫文による辛亥革命により清朝もろとも古代より連綿と続いていた君主制が終わり、中華民国が誕生しました。民主政のはじまりと共に、洋服などの西洋文化や洋裁の技術が入ってきて、清朝期旗袍からの旗袍も少しずつボディラインを意識するようなスタイルへと変化していきました。現代型の旗袍が登場するまでの期間の旗袍は、"民国期旗袍"と呼ばれています。

 

上海には19世紀末(清末期)から"租界"と呼ばれる外国人居留地が有り、欧米人が多数住んでいました。そして、大陸の他のエリアと比べても経済面・商業面での発展目覚ましく、対外貿易の要衝となっていき、欧米の文化を吸収する土壌が形成されていきました。伝統的な旗袍と、欧米の洋服がうまいこと融合し、現代のボディコンシャスなスタイルの旗袍がついに誕生しました。1930年前後のことと言われていますので、まだ100年も経っていないんですね〜。

 

当時の上海のお金持ちのご婦人、映画スターや歌手などが旗袍を流行らせ、自己を表現するファッション性の高いアイテムへと昇華していきました。当時の映画ポスターや広告絵画、雑誌の記事なども現存しています。上海から発展した経緯があるため"海派旗袍"(ハイパイチーパオ)という呼び方もあるくらいです。ちなみに"京派旗袍"(ジンパイチーパオ)と言って、通常の旗袍とは異なる北京型もあるのですが、あまり一般的では無いようです。

 

このように、旗袍は着物とは異なり時代によって変遷を遂げていることがお分かりいただけるかと存じます。

 

本来であれば、台北にある國力歷史博物館の特別展「東方綺思 傳統與當代時尚(英: Qipao Tradition and Transition)」(〜10.15)で私が撮影した写真を貼りたかったのですが、本ブログの容量である月300MBを既に超えているのか、うまく貼り付けできず写真無しとなってしまいました。大変申し訳ございません(>人<;)

 

次回のブログでは、1940年前後の民国期後半から現代に至るまでの旗袍の歴史と、「台湾社会と旗袍の関係性」についても触れられれば、と計画しております。

 

最後までお読みくださり、ありがとうございます(^^)

 

【お断り】

このシリーズでは私個人の見解に加え、知人の服飾史研究家でいらっしゃる岩本真一先生よりご提供くださいました論文及び先生が運営されているウェブサイト「モードの世紀」(http://www.mode21.com/)を参照させていただいた上で記載しております。もちろん先生より承諾済みです。旗袍に関してさらにお知りになりたい方は、「モードの世紀」もご参照ください。また、このブログは論文では無いため一部ウィキペディアも参照しております。ご了承ください。